上皇による
熊野御幸は通常、
本宮→
新宮→
那智→
新宮→
本宮の順に行なわれましたが、
藤原定家が記録を残した、
後鳥羽上皇は4回目の熊野御幸は、本宮→新宮→那智→本宮の順に行なわれました。
中世において、京からの熊野詣の順路は、京都を出発し、船に乗って淀川を下り、現在の大阪市天満橋の辺りで上陸。海岸筋の熊野街道を熊野の玄関口、口熊野といわれた田辺まで南下。
田辺からは中辺路(なかへち)の山中の道を本宮へ向かう。
本宮からは熊野川を船で下り、熊野川河口にある新宮に詣る。
新宮からは再び徒歩で海岸線沿いを辿り、それから那智川に沿って那智に登っていく。
那智からは再び新宮を経、熊野川を遡行して本宮に戻り、再び中辺路を通って都に帰っていく。
これが京からの熊野詣の通常の順路でした(本宮→新宮→那智→新宮→本宮)。
ところが、後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸は、本宮→新宮→那智と来て、那智からは那智の背後にそびえる妙法山に登り、「
大雲取越え・小雲取越え」の険路を越えて本宮に戻りました(本宮→新宮→那智→本宮)。
本宮→新宮→那智→本宮の順路で熊野御幸した記録が残っているのが唯一、後鳥羽上皇の4回目の熊野御幸。文献上はこの1回しかありません。
なぜ後鳥羽上皇だけこのような順路で熊野御幸を行なったのか謎ですが、高田崇史さんの小説『
QED 〜ventus〜 熊野の残照』に、面白い説が語られていました。
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posted by 藤原定家&てつ at 08:48
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